教室の沿革

1腫瘍外科・血管外科について

教室の前身である旧第一外科は明治26年(1893年)に開講され、創立124年という日本の外科の中で最も長い歴史を誇る、非常に伝統のある外科学教室です。その後、平成6年(1994年)に行われた大学院重点化により、従来の第一外科、第二外科、第三外科(分院外科)はそれぞれ腫瘍外科学・血管外科学、肝胆膵外科学・人工臓器移植外科学、胃食道・乳腺内分泌外科学に名称を変更しました。当教室は正式には「東京大学大学院医学系研究科外科学専攻腫瘍外科学」と「東京大学大学院医学系研究科外科学専攻血管外科学」の二つの講座からなり、附属病院において前者は大腸肛門外科を、後者は血管外科を担当しています。両科は附属病院での診療、大学院生の研究、学生の教育など全てにおいてナンバー外科の時代より強い協調関係にあり一つの単位として行動しています。

2スクリバ教師 時代 明治14年-明治34年 (1881-1901)
Julius Karl Scriba

Julius Karl Scriba 写真

ハイデルベルグ大学で医学を学び、フライブルグ大学外科で助手を務めた。明治14年 (1881)に来日し、 6月より明治34年 (1901) 9月までの20年間にわたり東京大学医学部において外科の教師として教育・診療に従事し、わが国の外科学の礎を築き日本の近代外科学の進歩発達に偉大な足跡を残した。無菌手術とエスマルヒ駆血帯を導入したといわれる。

3宇野 朗 教授時代 明治26年-明治30年 (1893-1897)

宇野朗教授 写真

明治26年 (1893) 9月7日、帝国大学令改正、各分科大学の講座数と内容が定められた。医科大学もこのとき初めて講座制がしかれ、外科学では三講座が認められた。ここに正式に外科学第1講座が誕生し、宇野朗教授が担当した。ほかに皮膚病、梅毒学講座を兼担し、さらに帝国大学評議員及び帝国大学附属病院院長をも兼任した。東京帝国大学第一代名誉教授。

4近藤 次繁 教授時代 明治31年-大正14年 (1898-1925)

近藤次繁教授 写真

近藤次繁教授は欧州で修得した新知識をもって日本外科学の進歩に大きな足跡をのこし、Fürbringer, Grossich消毒法などの技術が導入され、腹部内臓外科・肺外科・癲癇・関節結核など当時としては新しい手術が盛んに行われた。また、第一次世界大戦中には日本赤十字社からの救護班派遣、日本外科学会、外科集談会の設立にも力を尽くした。関東大震災の時には幸いに被害は僅少で、かわら、壁などの被害のみで、入院患者、職員に死傷者はなかった。教室員は本院周辺の負傷者の手当に従事した。

5青山 徹蔵 教授時代 大正14年-昭和11年 (1925-1936)

青山徹蔵教授 写真

それまで助教授として、泉橋慈善病院の外科部長も兼ねていた青山教授は近藤教授の後を受けて、第一外科を主宰した。この期間には新来患者4万名、入院患者9千名に及び、内分泌とくに甲状腺・肝・胆汁排出に関した諸問題、胃潰瘍・胃炎・腹部臓器と自律神経・脳外科・骨髄炎感染症などについての研究成果は盛んにドイツ専門誌などに発表された。また全身麻酔の研究に先鞭をつけ、X線深部治療を試み、この装置は放射線医学講座設立のさい、その教室に移管された。新外来患者棟(現管理研究棟)は昭和9年に完成した。

6大槻 菊男 教授時代 昭和11年-昭和23年 (1936-1948)

大槻菊男教授 写真

この時代には、第1講座にも戦争の影響が及び、多数の教室員が軍務につき、ことに昭和20年前後には空襲、資材の困窮など最悪の条件に悩まされた。しかしこの間にも腹部内臓疾患、とくに胃癌・胃潰瘍・虫垂炎・腹膜炎・肝機能・巨大結腸症・そのほか脳外科・バセドウ病・特発脱疽などについて広汎な研究が進められていった。昭和19年、建物疎開計画により第一外科病室を取り壊し、鉄骨鉄筋の外来建物二階・三階に移転した。昭和20年3月10日東京大空襲にさいして薬品、資材欠乏の中にあったにもかかわらず、多数の負傷者の治療に従事した。そして空襲警報発令中にも救急手術を行う必要上、外来建地下の病院図書室向かいの小室を臨時手術室として、数少ない医局員が連日診療・教育・研究に多忙を極めたが、図書や研究施設の疎開は行われず、戦時中の困難な問題も克服されていった。終戦後多数の医局員が復員し、教室は再び以前のにぎやかさをとりもどし、活気にあふれた教育・診療・研究がすすめられた。

7清水 健太郎 教授時代 昭和23年-昭和38年 (1948-1963)

清水健太郎教授 写真

14年余りにわたって脳腫瘍・癲癇・頭部外傷・脳波などの研究をはじめとして、消化管・末梢血管・内分泌・老人の外科・癌の化学療法・麻酔・放射能障害・生体反応などに関して活発な研究がすすめられ、一方、清水教授が昭和20年代に米国に出張し習得された当時の脳神経外科学の治験と最新技術を基盤にして、我国初の脳神経外科講座(外科学第3講座)が開講された。また、麻酔科講座が新たに創設されるとともにビキニ災害研究室の設立にも尽力した。さらに診療の中央集中化の一端として第2講座木本教授との協力の結果、昭和29年全国にさきがけて中央手術部が発足し、手術室の近代化が実現した。

8石川 浩一 教授時代 昭和38年-昭和51年 (1963-1976)

石川浩一教授 写真

悪性腫瘍、消化管疾患、血管、輸血後肝炎などの専門外来が開かれ、いくつかの研究グループが創設された。消化器外科を中心として悪性腫瘍の外科、外科侵襲と生体反応、周術期管理、診断治療の精密化、エレクトロニクスの医学的応用、脈管外科、老人外科、内分泌外科、輸血等の一般外科学各分野での臨床、研究が推進された。また、年1回の第一外科研究会が開設され、この場で教室員の研究発表と教室の現状を先輩方に説明する一方で、先輩は各職場での体験を講演し、OBと現役教室員との積極的な交流がなされるようになった。一方、昭和40年に始まる、いわゆる「東大紛争」の影響で、教育面に混乱が起こった。当科においても、教授側と医局員側の軋轢があったが、同時に活発な意見交換がなされ、医局としてのまとまりが得られた。

9草間 悟 教授時代 昭和51年-昭和56年 (1976-1981)

草間悟教授 写真

石川教授時代に発足した各分野の研究グループが、癌、脈管、肝、胆膵、胃、大腸、ショックと呼ばれる7つのグループとして集約され、グループ単位での活発な研究活動が行われた。特に、臨床面で癌専門外来が設置され、がんの再発現象の解明、がんの時間学など新たな研究分野での臨床腫瘍学が進歩した。教育面では、特に医学用語の統一、医学研究の遂行・発表方法の習得に力が注がれた。

10森岡 恭彦 教授時代 昭和56年-平成3年 (1981-1991)

森岡恭彦教授 写真

石川、草間両教授時代からの各研究グループを中心に、個人の自主性を重んじた研究体制が確立された。研究の細分化、専門化に伴い、国内施設や海外の研究室への研究留学も盛んに行われ、海外からの留学生も多数受け入れられた。森岡教授は、昭和61年に東大病院院長に就任、翌62年には宮内庁病院で行われた昭和天皇の開腹手術の執刀を担当された。臨床面では手術件数の増加が見られ、がんの告知、インフォームドコンセント、医の倫理、安楽死、脳死、終末期医療など、医療における幅広い領域にも目を向ける教育がなされた。

11武藤 徹一郎 教授時代 平成3年-平成11年 (1991-1999)

武藤徹一郎教授 写真

平成9年 (1997)、大学院重点化構想に基づいて、東京大学が大学院大学となり、医学部も部局化された。外科学も、従来のナンバー制外科講座から、腫瘍、血管、移植、消化管、肝胆膵、代謝内分泌の6つの大学院講座に大別された。これに伴い、第一外科は、腫瘍外科学、血管外科学の2つの講座を担当することとなった。外科系の大学院受験者も大幅に増加し、「科学の目を持った外科医の育成」をモットーに、臓器にとらわれない横断的な研究、教育が推進された。また、平成5年に新外来棟が完成し、東大病院の診療科も胃食道外科、大腸肛門外科、肝胆膵外科、移植外科、乳腺内分泌外科という臓器別診療科に再編成された。

12名川 弘一 教授時代 平成11年-平成22年 (1999-2010)

名川弘一教授 写真

武藤教授に引き続き、大学院講座として腫瘍外科学分野と血管外科学分野を担当、医学部附属病院の診療科として大腸・肛門外科と血管外科を担当した。患者の診察・治療を合理的、科学的に実践していくための裏付けとして、臨床的・基礎的な様々研究が行われ、その成果が手術を中心とした臨床の場で活用された。平成13年に新入院棟が完成し、9月に外科病棟から拠点を移し、カルテの電子化が推進された。平成16年に国立大学が法人化され、同年に卒後臨床研修必修化が開始された。平成18年に第II期中央診療棟が完成し、手術室が12室から23室となり、組織・制度・建物の改革が大胆に進められた。

13渡邉 聡明 教授時代 平成23年- (2011- )

渡邉聡明教授 写真

診療面においては大腸・肛門外科、血管外科のいずれも手術の低侵襲化が積極的にすすめられた。大腸手術においては大腸癌を中心とした腫瘍性疾患、炎症性腸疾患および虫垂炎などの緊急手術においても大部分は腹腔鏡下手術で行われるようになった。また直腸癌を対象にさらなる機能温存と低侵襲化を目指して、ダビンチを用いたロボット支援手術が導入された。血管外科領域では大動脈瘤に対するステント治療、静脈瘤に対するレーザー治療がすすめられた。手術数、入院患者数ともに増加し、これを背景にして臨床研究・基礎研究が精力的にすすめられた。海外施設との交流や共同研究が活発に行われるようになり、臨床・教育・研究のいずれにおいてもグローバル化がなされた。