胃癌腹膜播種に対する新しい治療
皮下埋め込みポートを用いた腹腔内化学療法
腹膜播種とは?
腹膜播種(ふくまくはしゅ)、癌性腹膜炎、癌性腹水、腹膜転移という言葉は、自分自身や身近な方がこの病気に冒されるまでは耳にすることの少ない言葉なのではないでしょうか。しかし、日本人に多い胃癌で亡くなられる方の半数近くが腹膜播種に苦しむとされ、決して珍しい病気ではありません。
人間のおなかの中には、「腹膜」という薄皮でできた大きな袋(腹膜腔または腹腔といいます)があり、この中に胃、小腸、大腸などの消化管がとぐろを巻いておさまっています。胃癌は胃の内側にある粘膜に発生しますので、初期の頃は袋(腹腔)の中に癌細胞がこぼれて散らばるようなことはありません。しかし、癌が成長して胃の内側の粘膜から胃の筋肉に、さらに胃の外側の表面までしみ出してくると、表面からはがれた癌細胞が袋(腹腔)の中に散らばってしまいます(図1)。癌細胞1個の大きさは0.01mmしかありませんので、はじめのうちは癌細胞が袋の中にはがれ落ちていても目に見えません。手術でおなかを開いて袋(腹腔)の中に生理食塩水を注入し、しばらくして液体を回収して顕微鏡で観察すると、はがれ落ちて浮かんでいる癌細胞が見えることがあります。この状態を洗浄細胞診陽性といいます。
袋の中(腹腔)に散らばった癌細胞が腹膜に付着して、細胞分裂を繰り返し目に見える大きさの粒々に、あるいは塊になったものを腹膜播種といいます(図2)。袋(腹腔)の中にはがれ落ちた目に見えない癌細胞が、畑に種をまいたように成長してくることから付けられた名称です。
腹膜播種も洗浄細胞診陽性も予後不良(完治が困難、ステージ4)であることを意味します。
(注)医学用語では「腔」は「くう」と読みます。「腹腔」は「ふくくう」と読みます。

(図1)胃の内側に発生した癌が胃の外側の表面までしみ出して露出しています(白っぽい部分)。ここから癌細胞がはがれ落ちておなか中に散らばります。
腹膜播種が生じるとどうなるのか?
癌細胞の大きさは0.01mmしかありませんので、癌細胞が袋(腹腔)にはがれ落ちたばかりの初期のころは症状がありませんし、超音波検査やCT検査でも見つかりません。しかし癌細胞が細胞分裂を繰り返して増殖し大きな塊になると、小腸や大腸の通りが悪くなったり(腸閉塞)、腹水が出現したり、尿管が狭くなって水腎症になったりします。自覚症状としては、耐え難い腹部膨満感、便秘、腹痛、吐き気、嘔吐などがあります。

(図2)胃の表面からはがれた大きさ0.01mmの癌細胞が小腸の近くに付着し、細胞分裂して数ミリの大きさの白っぽい粒々に成長しているところです。さらに大きな塊になると小腸が押しつぶされて、食物が通らなくなり腸閉塞になります。しばしば腹水を伴い、腹部膨満症状に苦しみます。
腹膜播種の治療
腹膜播種は肺転移や肝転移と同様に第4期に病期分類され、手術だけでは治しきれません。胃を全部切除しても袋(腹腔)の中に散らばった癌細胞を取りきることができないからです。各種検査で手術前に腹水や腹膜播種があることが判明した場合、残念ながら特別な理由がなければ急いで手術する意味はありません。また、切除するつもりで開腹したら腹膜播種が見つかったという場合も、通常は切除しないでそのまま閉腹します(注)。もちろん胃癌からの出血のために貧血が改善しない場合や癌のために食餌の通りが悪くなっている場合には、効果が期待できれば手術することはあります。
腹膜播種を理由に胃切除手術を受けられなかった場合の標準的な治療法は、肝転移や肺転移がある場合と同様に延命と症状緩和を目的とした抗癌剤治療になります。既に小腸や大腸の通りが悪くなっている場合は、入院して絶食とし点滴で栄養を補給し、鼻を通して胃まで挿入した管(経鼻胃管)で胃液を体外に排出して嘔吐を抑えるようにします。場合によってはバイパス手術や人工肛門造設術を行うことがあり、一時的な効果が期待できます。肝や肺と異なり腹膜は生命の維持に必須の部分ではないため、腹膜播種だけでは必ずしも短期間に生命が脅かされるわけではなく、それだけ長い期間この苦痛にさいなまれることがあります。
(注)細胞診のみ陽性の場合や腹膜播種が軽度である場合に、術後の抗癌剤治療に期待して胃は切除するという方針をとる外科医もいますが、胃を切除することの意義については証明されていません。
抗癌剤治療の奏功率について
ここ数年、胃癌に有効とされる数種類の新規抗癌剤が保険適応されるようになり、それらを組み合わせて60%以上の奏功率を達成できるようになりました。ただし、勘違いしてはいけないのが奏功率の意味です。一般に「奏功する」といえば「癌が治る」という意味にとられがちですがこれは間違いです。医学上の定義では、「奏功する」ということは「癌が治る」という意味ではなく、癌の大きさがある割合だけ縮小した状態で(たとえば癌の断面積が半分以下になった状態、あるいは長径が7割以下になった状態で)、それが4週間以上持続するという意味です(注1)。たとえば抗癌剤治療を開始して1ヶ月で癌の断面積が半分になり2ヶ月後も同じ大きさを維持していれば、仮に3ヶ月後にもとの大きさに戻っていても「奏功した」と表現されます。 最近の抗癌剤治療は奏功する確率が上昇していることは間違いないのですが、実際に検査で癌が見えなくなるくらいに抗癌剤が効いて、なおかつ何年間も小さくなったまま癌が大きくなってこないということは稀なことです(注2)。 現実には抗癌剤が奏功した場合でも半年ないし1年で再増殖してくることが多く、抗癌剤治療だけで癌が完治することはないと考えてもよいでしょう。
(注1)癌の断面積が半分以下あるいは長径が7割以下になった状態が4週間以上続けばPartial Responce (パーシャルリスポンス、PR)、 各種検査で癌が見つけられないほど縮小した状態が4週間以上続けばComplete Responce (コンプリートリスポンス、CR) といいます。「奏功した例」というのはPRとCRを足したものと定義されます。 また、CRとは癌が治ったという意味ではなく、癌が各種検査の検出限界より小さくなったため見つけられないという意味です(CTでは5mm以下の病変を発見するのは困難です。PET検査も安定して癌を検出できるのは8mm以上の病変です。したがって、4mmの癌が残っていたとしても検査で見つけることができないためCRと評価されることが多いということになります)。奏功例のうちCR(Complete Responce)の割合は決して多くありませんが、CRになった患者さんの中には長期生存する方がいらっしゃることはよく知られています。
(注2)抗癌剤治療の最終的な目標は延命効果ですが、直接的な評価可能な目標は「腫瘍の縮小」です。これは「癌が縮小しないような治療では延命効果も無いだろう」という「仮定」に基づくものです。このため、患者さんの体が耐えうる最大限の抗癌剤を投与することによりできるだけ多くの患者さんの癌を縮小させること、言い換えると「高い奏功率を達成できること」が優れた抗癌剤治療の条件であると評価されてきました。現実には高い奏功率を得られる抗癌剤治療が高い延命効果に結びつかない例も多々報告されるようになり、奏功率だけでなく実際の延命効果が証明されなければ評価されなくなってきています。現実には、標準的な投与量より少量の抗癌剤で癌を抱えたまま長期生存し、副作用もなく快適に過ごされる患者さんもいらっしゃいます。臨床試験で得られた生存率のデータは「人間がその副作用に耐えうる最大の量を投与した場合の生存率」を調べたものにすぎず、それより少ない投与量での治療が比較検証された例はほとんどありません。
抗癌剤治療は意味がないのでしょうか?
以上のように書いてしまうと「抗癌剤を使用しても癌が治るわけではないから無意味」と感じられるかもしれませんが 、全く癌に対する治療をしない場合に比べて生存期間が延長する可能性がありますし、癌が小さくなることで癌によって生じる症状(痛み、腹水など)が緩和されることもあります。現段階では抗癌剤治療に過剰な期待を持つのは禁物ですが、副作用対策を十分に行った上で適切に使用すれば、延命効果と緩和ケアの点で有益な場面が多いと考えられています。
(注)ここでいう抗癌剤治療とは、切除不能な進行胃癌や再発胃癌に対する治療のことであり、根治手術後に再発予防の目的で行われる補助的な抗癌剤治療は含まれません。
第4期胃癌の抗癌剤治療
現在、胃癌に対して高い縮小効果が証明されている抗癌剤に、S-1、シスプラチン、イリノテカン、タキサン系抗癌剤などがあり、国内の多数の施設で抗癌剤の組み合わせや投与方法をアレンジして奏功率や延命効果を高める努力が払われてきています。しかし現在のところ、第4期あるいは再発胃癌の患者さんは完治は不可能と考えられており、病巣は切除せず初回治療としてS-1とシスプラチンの併用療法を行い、無効になればイリノテカンやタキサン系抗癌剤などに切り替えて可能な限り延命を図り、すべて無効になれば緩和ケアへ移行するという方法が標準的な治療として広く行われるようになっています。TS-1とシスプラチン併用療法の奏功率は70%を超えるとされ、1年生存率50%、2年生存率20%と報告されています。これによって数ヶ月の延命が達成され、腫瘍の縮小による自覚症状の改善も得られる可能性があります(注)。
(注)通常、転移・再発胃癌の平均生存期間は3〜5ヶ月とされていますが、最近の臨床試験の結果によるとTS-1単独で生存期間中央値が11ヶ月、TS-1とシスプラチンの併用療法では13ヶ月に延長します。このため切除不能胃癌や再発胃癌に対する初回標準治療はTS-1とシスプラチンの併用療法であると考えられるようになっています。しかし、この臨床試験には肝転移、肺転移、腹膜播種など様々な病態の患者さんが含まれており、TS-1とシスプラチンの併用療法が、腹膜播種に対しても最も有効な治療なのかどうかは不明です。。
第4期の胃癌のうち腹膜播種のために切除不能とされた患者さんに対しては、上に述べたように抗癌剤だけで延命治療を行う方法以外に、抗癌剤の腹腔内投与によって腹膜播種をコントロールしてから胃切除を行い長期生存や完治を目指すという考え方があり、金沢大学、福井大学、大阪大学を始めいくつかの施設が良好な成績を報告しています。単一施設での成績であるため現段階では標準的な治療とは成り得ていませんが、以前より効果の高い抗癌剤が臨床応用されている現在、有望な治療と考えられます(注)。
(注)「抗癌剤だけで癌が完治することはない」と先に書きましたが、これは抗癌剤の力が弱いという意味ではありません。実験室でシャーレ(培養皿)の中で育てられている癌細胞に抗癌剤を加えると、抗癌剤濃度を上げることによって癌細胞を短期間で死滅させることができます。では何故、人間の体の中にある癌細胞を死滅させることができないのでしょうか?その理由の一つは、短期間に癌細胞を死滅させることができるような高い抗癌剤濃度を生体内で実現することが不可能だからです。癌細胞を殺す抗癌剤濃度と正常細胞を殺す抗癌剤濃度の差はごくわずかしかないため、癌細胞を死滅させるために抗癌剤濃度を高くすると正常細胞まで死んでしまいます。肺転移や肝転移のように胃癌から血管を通じて全身に癌が広がった患者さんを抗癌剤で治療する場合は抗癌剤を静脈から全身投与する必要がありますが、できるだけ副作用がでないように(つまり正常細胞をできるだけ殺さないように)抗癌剤の投与量を手加減する必要があり、このために癌が死滅するに至らないと考えられます。これに対して腹膜播種は全身病ではなく腹腔内に癌が留まる状態ですので、腹腔内に注入しても全身に広がりにくい抗癌剤があれば、全身の正常細胞に影響を与えることなく高濃度の抗癌剤濃度を腹腔内に実現できるため高い延命効果を期待できるのではないかと私たちは考えています。
私たちが行っている治療効果を上げるための工夫
タキサン系抗癌剤はシスプラチンよりも長時間腹腔内に留まることから、私たちは第4期胃癌のうち腹膜播種の初回治療には、S-1+シスプラチンよりもS-1+タキサン系抗癌剤の方が有効と考えています。さらに投与方法に工夫を加えた術前化学療法を行い根治手術の可能性を高めることを目指しています。
具体的には、下腹部の皮下に埋め込んだ薬剤の注入器(ポート)から細い管を腹腔内に入れておき、タキサン系抗癌剤(パクリタキセルやドセタキセル)を繰り返し腹腔内に注入することによって腹膜播種をコントロールすることを目指しています。 タキサン系抗癌剤は静脈投与でも腹腔内によく移行し治療効果を示すことが知られていますが、図3に示すとおり、パクリタキセルを腹腔内投与すると、静脈投与した場合より10〜1000倍の腹腔内パクリタキセル濃度を長い時間実現することができます。しかも、腹腔内投与後の血中のパクリタキセル濃度は正常細胞に悪影響を及ぼす濃度には達しません。癌が肺や肝など全身に広がっておらず腹腔内にだけ広がっている場合には、腹腔内投与を繰り返すことで従来よりも大きな延命効果を期待できるのではないかと考えています。

(図3)
( iv ) パクリタキセル(TXL)を静脈投与
( ip ) パクリタキセル(TXL)を腹腔内投与
従来の全身的な抗癌剤治療に腹腔内化学療法を加えるこの方法は、これまでの65例の経験では腹膜播種だけでなく転移リンパ節や胃癌の原発巣にも高い効果が認められています。また、全身に対する副作用が比較的少ないため外来通院で実施可能で、患者さんのクオリティ・オブ・ライフ(QOL:生活の質)を維持することができると考えています。今回、私たちは腹腔内化学療法の安全性と有効性を厳密に確かめるために臨床試験「進行再発胃癌に対するS-1+パクリタキセル経静脈・腹腔内投与併用療法の安全性および有効性に関する第 I/II 相臨床試験」を開始しました。対象となるのは次のような患者さんです。
(1)胃癌の術前検査で腹水あるいは腹膜播種が判明したため胃切除を行っていない方
(2)手術によって腹膜播種が発見された、あるいは洗浄細胞診陽性であったため胃切除が行われなかった方
(3)スキルス胃癌と診断された方
(4)胃癌が大きいため腹膜播種を生じている可能性のある方
肝転移や肺転移などの臓器転移のある患者さんは対象に含まれません。また、既に胃を切除された方や他の抗癌剤治療を受けていらっしゃる場合も対象になりません。
(注)第 I 相試験は終了しました。現在まで60人の患者さんに腹腔内化学療法を行い、短期の安全性に問題のないことを確認しました。引き続き第 II 相試験を行っていますが、奏功した患者さんに対しては腹腔鏡検査を行い、腹膜播種が消失していれば肉眼的根治を目指した胃切除を行っています。
症例提示
(1)広範な腹膜播種に対する効果
(2)卵巣転移を伴うスキルス胃癌に対する効果
(3)卵巣転移と腹水を伴う胃癌に対する効果
(4)高度なリンパ節転移症例に対する効果
(5)原発巣と巨大なリンパ節転移に対する効果
(6)大量腹水を伴う腹膜播種に対する効果
(7)腹膜播種による直腸狭窄に対する効果
第79回胃癌学会総会発表要旨 モノクロ(1.05M) カラー(2.17M)
お問い合わせについて
埋め込みポートを用いた腹腔内化学療法について関心のある方は以下の窓口までメールにてお問い合わせ下さい。なお、匿名のメールにはお返事しませんことをご了解下さい。
臨床試験責任医師 : 北山丈二
臨床試験分担医師 : 甲斐崎祥一(文責)、石神浩徳、秀村晃生
問い合わせ窓口
甲斐崎祥一、石神浩徳
メールの宛先はこちら
当科以外にも腹腔内化学療法の臨床試験を行っている施設があります。遠方にお住まいの方はこちらをご参照下さい。
|